LOGIN到着したのは、幼いころに澪と仁が生まれ育った町だった。仁は小学校を卒業すると同時に、この町から引っ越している。
「仁がここに来るの、久しぶりなんじゃない?」
「うん、そうだな。この道を歩くのは、十七年ぶりだ」
仁は車を公園の脇の駐車スペースに停めた。車を降りて、ふたりで歩き出す。
ただ横に並んで、歩く。
公園に入ると、幼いころふたりで遊んだ遊具が目に入った。
「よくここで遊んだよね」
「そうだな」
「仁はよく泣かされてたよね」
「澪は俺のことを守ってくれてたよな」
今ではすっかり立場が逆転した。幼いころは澪が仁を守っていたが、今では仁がことあるごとに澪を守ろうとしてくれる。背も、澪よりずいぶん高くなった。
公園を抜けた先に、原っぱがあった。そこには幼いころに見た白い小さな鞠みたいな花が、たくさん咲いていた。
「ここは昔と変わらないね」
「なんか、ほっとするな」
やわらかい風
畳の上には、仁が箱から出した手紙が並べられていた。 澪はそのうちの一通に、そっと手を伸ばした。 封は、閉じられたままだった。切手も貼られていない。宛名だけが、丁寧に書かれている。 書いて、宛名まで書いて、それでも出さなかった。その時間が、封筒の薄い厚みになって手のひらに残った。 澪は手紙をもとの場所に戻した。今、これを開けてはいけない気がした。 ノートは使い込まれていて、端がボロボロになっていた。表紙は角がめくれあがり、何度もそこからページをめくったのだということがわかる。 澪はそっとそのノートを手に取った。「中、見ていいぞ」 仁は、外に出した手紙を整えながら言った。澪が仁へ目を向けると、手元をじっと見つめて、澪のほうを見ようとしない。 もしかして、この中に仁が「全部話す」と言ったことが書かれているのだろうか。 澪はノートの端に指を当てた。表紙をめくろうとするが、指がこわばってうまく動かない。 一度、手をぎゅっと握りしめてまた開いた。再び指をノートの端に当てて、表紙をめくった。 息を呑んだ。 ノートには、調香とコスメの処方に関する研究が記録されていた。最初の一行に〝M・Aの肌データに基づく理想処方〟と書かれていた。 調香の研究は、アロマオイルを使ったものだった。フローラル系、ウッディ系、ハーブ系など、さまざまな香りをブレンドして試作しているようだった。同じ香りの組み合わせでも、配合を変えた試作品がいくつも作られている。そしてそのひとつずつにコメントがつけられていた。〝この香りは渋みが強い。きっと好みに合わない〟〝フローラルが強すぎる〟〝好きな香りを組み合わせたが、ブレンドすることにより悪くなっている〟 その香りは一つひとつ、どれも澪の好きなものだった。 コスメの処方のページを見た。一番上に〝乾燥しやすいのに、敏感〟と書いてある。 まさに澪の肌質だ。 その下に、乾燥肌の人向けのオイルや有効成分などが列挙されている。さらに、敏感肌の
到着したのは、幼いころに澪と仁が生まれ育った町だった。仁は小学校を卒業すると同時に、この町から引っ越している。「仁がここに来るの、久しぶりなんじゃない?」「うん、そうだな。この道を歩くのは、十七年ぶりだ」 仁は車を公園の脇の駐車スペースに停めた。車を降りて、ふたりで歩き出す。 ただ横に並んで、歩く。 公園に入ると、幼いころふたりで遊んだ遊具が目に入った。「よくここで遊んだよね」「そうだな」「仁はよく泣かされてたよね」「澪は俺のことを守ってくれてたよな」 今ではすっかり立場が逆転した。幼いころは澪が仁を守っていたが、今では仁がことあるごとに澪を守ろうとしてくれる。背も、澪よりずいぶん高くなった。 公園を抜けた先に、原っぱがあった。そこには幼いころに見た白い小さな鞠みたいな花が、たくさん咲いていた。「ここは昔と変わらないね」「なんか、ほっとするな」 やわらかい風がふわっと澪の頬を撫でた。花の甘くやさしい香りが鼻腔を満たす。そのとき、どこか遠くから別の甘い香りが一筋だけ漂ってきた。 この香り、どこかで――。 そう考えたとき、仁が澪の背中を軽く押した。「じゃあ、今度はこっちな」「う、うん」 向かった先は通学路だった。「懐かしいねー。仁はいろんな子からよくからかわれていたよね」 その言葉に仁はふと顔を逸らした。「そんなこと思い出させるな」「いいじゃん。でもさ、あたしが仁の前に立つと、なぜかみんな怖がって逃げちゃったよね」「それは澪が妙にデカかったからだろ」「でも今は普通じゃん」「そうだな」 まるで幼いころに戻ったかのように軽口を言い合う。そうするうちに、小学校に到着した。「全然変わらないね。こんなに学校って小さかったっけ?」「俺たちが大きくなったんだよ」「それもそうか」 昔話をしな
〝調べていた〟という言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。 どうして仁がそんなことをするのだろうか。仁に限って、そんなことをするはずがない。 受話器を持つ指先が氷のように冷たくなった。「調べて……いた、とはどういう――」『その反応ですと、朝倉さんはご存じなかったと』「いえ、あの、そんな……」『なるほど。それでは、別の質問をさせていただきます。朝倉さんと高宮氏は幼なじみだということですが、本当ですか?』 どこからこんな情報が漏れているのだろうか。背筋が凍る。「はい、それはそうですけど」『高宮氏が引っ越してから、十七年間一度も会ったことはないのですか?』「…………」 澪は答えなかった。それが肯定だとわかっていても、答える気にはなれなかった。『そうですか。これまで一度もお会いにならなかったのに、今回お仕事でご一緒されたのは偶然だと思われますか?』「どうしてそんなこと――」『いやあ、こちらとしては、偶然ではないと見ているんですよ。ですからあなたにこうやって取材をお願いしているんです』 「取材をお願いしている」とは言っているが、お願いされた覚えはない。一方的に電話をかけてきて、質問しているだけだ。「おっしゃっている意味がわかりませんが」『朝倉さんは、偶然だと思われているということですね。よくわかりました。今、お仕事中だと思うので、今日のところはこの辺で失礼します』 電話は、がちゃっと突然切られた。ツーツーという通話終了音が、やけに遠くに聞こえた。 今のはいったい――。 仁が本当に澪のことを調べていたのだとしたら。そう考えた途端、恐怖が襲ってきた。なぜ澪を調べる必要があったのか。記者の言うとおり今回は偶然ではなかったのだろうか。 けれど、仁がそんなことをするはずなどないと思っている自分もいた。いつもやさしくほほえみ、澪を守ってくれ
直哉はダーマコードのホームページを開き、社長である高宮仁のプロフィールを調べた。高宮は一流国立大学を出て、そのまま大学院へ進んだらしい。検索をかけると、業界誌のインタビュー記事が出てきた。出身高校は、名前を聞けば誰でもわかる進学校だった。 元から頭が良かったのだろうか。 直哉は高宮の出身高校と大学をメモした。それから連絡先をタップしてメッセージを打った。《お久しぶりです。黒川です。急ぎ調べていただきたいことがあり、ご連絡いたしました》 相手は以前、直哉が勤める不動産会社に部屋を借りに来た男だった。彼は短期間で契約できるマンションを探していた。「こちらに長期の出張かなにかですか?」 何気なく直哉が聞いた言葉に、彼は「まあ、そんなものです」と答えた。 契約が終わり引き渡しの日に、彼は直哉に名刺を差し出した。「私、探偵をやっています。もしなにか調べたいことがあればいつでもご利用ください」 直哉は名刺を受け取ると、すぐに名刺入れへしまった。探偵を利用することなどないだろうと思っていた。それなのに、今はその探偵を必要としている。 直哉は引き続き、メッセージを打ち込んだ。《ダーマコードの社長の高宮仁という人物について調べてください。出身校、出身大学は下記のとおりです》 探偵がどれほど正確に調べ上げられるのかは、わからない。けれど、どんな些細なことでもいい。高宮をつぶす材料になれば。《できれば、スキャンダルになるようなことがいいです。なにか裏で悪いことをしていたとか、女にだらしないとか、そんなことでお願いします》 送信して、スマホをポケットにしまった。しばらくすると、スマホが震えた。画面を確認すると、先ほど連絡を入れた探偵からだった。《承知しました。急ぎということですので、報酬は割り増しになりますがよろしいですか?》 急ぎで調べたら割り増しになるのかよ。 心の中で悪態をついたが、一日も早く高宮を潰したい。《報酬の割り増しについて、承知しました。よろしくお願いします》 送信ボ
スマホを持つ手が小刻みに震えた。足の裏に根が生えたように、その場から動けない。 直哉はなぜ、澪の実家にいるのだろう。「全部ぶちまける」とは、なにをぶちまけるつもりなのだろうか。 澪は悪いことは一切していない。一方的に別れを告げて婚約を破棄したのは直哉のほうだ。それ以外の事実はない。 それとも、家族に危害を加えるつもりなのだろうか。 もしそうだとしたら――。 家族を守るためには、澪が直哉のもとへ行かなければならない。澪が一歩踏み出そうとしたとき、その足が止まった。 いや、澪が直哉のもとへ行ったら、直哉の思う壺だ。直哉の思いどおりにさせてはいけない。 澪はスマホを持つ手に力を込めた。「どうした? なにかあったのか?」 気づけば、来場者はすでに会場を後にしていた。見渡せば、撤収作業が始まっていた。「あ……うん」 澪は仁からスマホの画面を隠すように、画面を伏せた。仁は眉間にしわを寄せ、その様子を見た。「なにがあったんだ」 仁は静かに聞いた。澪は視線を自分のつま先に落とした。 どうしよう。こんなことを仁に言ったら、きっとまた困らせてしまう。もしかしたら、仁は澪のためになにか行動しようとするかもしれない。 澪は唇をきゅっと引き結んだ。「うん、大丈夫。なんでもないよ」 仁は訝しげな表情で澪を見て、言った。「本当か?」「うん。本当。なんだけど――」 そこまで言ったのに、その後の言葉が喉につかえて出てこなかった。澪は再び、唇を引き結んだ。「やっぱりなにかあるんじゃないか? いいから言ってみろ」 仁は澪に一歩歩み寄った。その表情が、なにも心配しなくていいと言ってくれているようだった。 澪は拳を小さく握って、仁の目を見つめた。「あたしの元婚約者がね、あたしの実家の前にいるみたいなの」 直哉の名前を口にするのも汚らわしい。 その言葉を聞いた瞬間、
発表会当日。 開場と同時に、多くのメディアが会場に入ってきた。席が一つずつ埋まっていく様子を、澪は舞台袖でじっと見つめていた。会場の話し声が少しずつ増えていく。それを聞くだけで、心臓が口から飛び出しそうになった。 胸の前で手を組んで、祈るように目を閉じた。 この会場がいっぱいになれば、発表会は始まる。開始まであと十五分だ。 メディア席が満席になると、その後ろにある一般席へ、応募して当選した人たちが入ってきた。きっとOnlyéを使って気に入ってくれている顧客だろう。皆一様に期待に胸を膨らませているようだ。 開始三分前。スタッフが澪のもとへやってきた。「おひとりだけまだお見えになっていないのですが……」 スタッフは名簿を澪に差し出した。出席の印がついていないのは、澪が違和感を覚えた男性の名前だった。「どうしましょうか?」 スタッフが眉を下げて、困った顔をした。澪はまっすぐスタッフの目を見て言った。「時間になったらはじめます。ですが、もしこの方が遅れて来られたら、そっと扉を開けてなかへ入れてあげてください」 スタッフは、「わかりました」と言って、会場の入り口へ戻っていった。 澪が舞台の袖から会場を見ていると、後ろから仁が声をかけてきた。「どうしたんだ?」「まだお見えになっていない方が、一名いらっしゃるみたいで……」 澪が振り返ると、思いのほか仁が近くにいて、思わず体を後ろに引いた。「そうか」 仁が身を乗り出して、会場を覗いた。「メディアはもうそろっているから、時間になったらはじめるつもり」 澪が説明すると、仁はうなずいて、なにも言わずにその場を離れていった。 開始時間になったが、男性は来なかった。席がひとつ空いていた。 澪は舞台に上がり、マイクをしっかりと握った。指先が冷えているのに、手のひらには汗が滲んでいた。「本日は、